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 昭和12年早坂司教の病気辞任に伴い鹿児島教区長山口愛次郎師が長崎司教に任命され、15年まで両方の教区長を兼任したが15年8月に井口師が山口教区長の後任として鹿児島教区長に栄転されることになった。昭和15年8月23日、平田善次郎師が就任された。

 

 20年7月30日、教会に爆弾が落下し司祭館と伝導館は全壊し教会施設の全部に被害を受けた。平田師と信徒達は無事を確認できた。この時、非常物資は保護できたとはいえ、教会の存立に付帯する多くの資料を喪失した。

教会は総力を結集して復旧に努め11月1日の祝日に完成、信徒全員の祈りの中で喜びを感謝した。

保育所は、翌21年の1月に修理を終えた。焼失した司祭館の建設が始まったのは22年4月からで12月に完成した。また、聖堂の修築と鐘楼の増築が行われた。師が50周年記念誌に寄せられた奨励文の中で、「昭和15年の真夏、戦争への新体制が続々と敷かれる最中に赴任し、銀祝をしていただいたのも束の間に爆撃にあって教会は無惨な姿になりました。これから旧に復するまで、まる3年の間誰しもが不屈不曉の努力を続けたあの頃を忘れることはできません。・・・・」と当時の苦労を振り返りながら述べられている。

 昭和23年12月10日、鶴田源次郎師が就任された。師は長崎教区が邦人教区となってすぐに早坂司教の命にりカトリック教報編集を担当した初代の司教である。それまでの片山弥三郎氏による要理研究の実施を引き続き行うことを承認。宿老たちは墓地の購入を企図して現地調査を開始した。片山氏お要理研修が続けられるようになり、それまで活躍していた堤伝道婦は退職した。4月に浦上地区より真田氏が伝道師として就任し児童の研修を担当した。地区研究会(現、地区集会)には鶴田師、真田伝道師、片山氏が営々と巡回を続けた。

 25年教会の付属建造物の1つである保育所の建設工事が始められ、9月新保育所が落成した。「飽の浦親愛保育所は、官民関係者列席のもと盛大な落成式が行われたが、新園舎採光通風はもちろん設備の点でも申し分のないもので、県下の保育所では随一を誇るものだと言われている。もう、すでに75名の園児が入園し、3名の保母が甲斐甲斐しくお世話をしている。

 飽の浦教会は聖堂の修築、司祭館、公民館(要理教室のこと)の新築など独力で次々に復興事業を完成してきらもので3000余りの信徒を抱える大世帯とはいえ、主任の鶴田師をはじめ、信者一同の努力精進は感嘆の的となっている」とカトリック教報では書き残している。教会には、墓地がなく信徒それぞれの出身地である神の島、木鉢、伊王島に埋葬していたが、同年5月水の浦町、山田弥造氏所有の畑2反7敏20歩の売買契約が成立し、同年12月25日杉山知事の特別詮議により埋葬許可が認められた。2年5か月間要理指導に当たった真田伝道師が退職し、高学年は鶴田師、低学年は指導者として深堀フミ子氏を雇用した。墓地の分割案は申し込み多数のため、分割することなく共同墓地として使用することに決定した。

 老築化の著しい聖堂は信徒の増加に伴う収容限界を超えごミサもままならなくなった。信徒の間に新聖堂建築の気運が高まり、昭和28年教亜紀建設準備委員会が設置した。長崎教区が大司教区となって山口大司教様が着座された昭和34年12月13日落成献堂された。鶴田師は昭和37年4月30日14年間の長い間の飽の浦教会司牧を終え神の島教会へ転任された。

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