飽の浦教会をご紹介いたします。ぜひ、ご一読いただければ幸いです。

飽の浦小教区史によると

飽の浦教会は

この飽の浦の地先で創業を開始した三菱造船所の大正初期における事業の趨勢は巡洋艦「霧島」を皮切りに巨艦の建造、世界優秀客船の建造時代で第一次世界大戦勃発とともに創業以来の盛況を呈し、また、日露戦争による沈船の引き上げを始めとして防州沖、土佐沖、玄界灘における難船救助事業も73件を数えており、従業員1500人余を擁していた。この従業員とその家族75000人を数えれば当時の長崎市の人口の3分の1以上を占めていたことになる。このような産業、工業の発展に伴って県内県外から生業を求めて飽の浦一帯に移住する人たちが年毎に増え、この人たちに混じって教区の各地から信徒達が集まって来たのである。


その頃、当地に住みついた信者達は中町教会に所属し、島内要助師の司牧を受けていた。天気の良い日は稲佐橋を徒歩で廻り、天気の悪い日は旭町の桟橋から向かいの魚集積場に渡してもらって中町教会に参詣した。一番ミサが5時半で7時が三菱の出勤時刻であったので日曜日の朝は慌ただしく弁当まで用意しなければならなかった。当時の信者の家長はほとんど三菱造船所の船頭か人夫で海軍上がりのセーラーマンが1人2人いたようである。

 大正4年頃、水の浦204番地、下川和三郎宅で島内要助師のミサを挙行してもらえるようになった。道傍でミサを拝聴する人もあり、狭い家で約40人の人達が入れ替わってミサに与った。このようにして下川宅で儀式に与ることによって信者間の交流が芽生え、宗教上の努めを果たす話し合いがなされ、そのうちに教会建設のことが相談されるようになった。司牧司祭である島内師は教会の建設については始終、地元の信者に迷惑をかけないように繰り返しておられたという。それは、地元の信者が月に3円や9円ぐらいの収入しかなく、柱時計さえ買えないで円のつく金を寄付すれば芋を食べて暮らさねばならなかった実情を察知しておられたからである。むしろ反対に金持ちの方々から出資を仰ぐようにすすめられた。信徒の側からして見れば、話し合いが一旦土地購入の話しになると黙して語らず、他教会の所属地域へ移転することさえ頭にうかんだそうである。

 教会建設の第一段階として購入のことが持ち上がり、信徒はその出身地から寄付を仰ぐことを申し合わせ、これを条件に中町教会から資金を借り入れることにした。用地として目をつけられたのは、今、私達が聖域として守りつづけている現在地であることは申すまでもない。この土地は、代々浦上村渕郷の庄屋志賀家の土地であり、当時すでに開墾されて畑になっていた。土地購入の進展と平行して地元では一戸当たり月10銭を徴収し、中町教会(現在の地区委員)の宿老の中から金きり役(当時の言葉)の特別会計の方が選ばれ毎月往来してくれた。こうして、大正7年教会に建設用地を購入した。この間、信徒達は他教会の協力援助に励まされて貧しい中から10円、20円といった金額を捧げて聖堂の建設に踏み切った。大正8年5月6日に着工し、その年の大正8年9月21日飽の浦教会が木造の粗な聖堂ではあるが完成した(坪数75坪、粱間6間、桁行12間、総工費10000円)

 このようにして建てられた聖堂は、一応当初の目的を達成したが、先進信徒の完全独立への熱意と努力は大正15年までの7年間の間に実現した諸事業をたどるとき伝わるのである。年代別に見ると保育所(現、親愛園)用地の購入、司祭館建設、伝道館建設、伝道師住宅建設、幼稚園(保育所)の開設などを完成している。